昭和47年02月21日 朝の御理解



 御理解 第4節
 「此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。」

 確かに、金光大神様は、私どもの恩人だけではなく、天地金乃神様の、恩人でもあるわけでございます。そこで、「金光大神の言うことに、そむかぬよう、よく守って信心せよ」というところが、大変な難しいわけでございます。ね、常日頃よく教えを頂いて、教えを守って行けよということなのですから、なかなか守れませんね。けれども私はこの一番最後のところに、「まさかの折には」とありますね。「まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばん。
 金光大神助けてくれと言えばおかげを授けてやる」このまさかのと、まさかの折にと言うことは、なんか突発的に事が起きたという言う時だけではないのだ、ですね。私どもが何も知らないで生活しておるものが、こと難儀なら難儀に直面致しますと、まあ例えて言うと、医者にも薬にも見放された、ね、と言った様な場合です、ね、又どうにも出来ない、もう人間の知恵力で以て出来ないような事件なら事件に直面した場合、所謂まあどうでんここは助けてもらわねばならないという時のことだと、ね。
 どうでも助けてもらわねばならないと。ですから、本当は皆ここにお参りをたとえ致しておる皆さんの一人一人がです、どうでも助けてもらわねばならないというものを持たなければならない。また、持っておると思うんです。ところがそこのところに、本気でそれを助けて頂きたい、助かりたいという願いがあるか否かということなんです。ね、今日は私そこのところに焦点を置いて、話を聞いてもらいたいと思う。
 ね、どうでも助かりたい、言うなら私、まさかの時と言うことを突発的なというだけではなくてね、どうでも助かりたい、どうでもおかげを頂きたいと、そういう願いが立てられた時。そこからね、私は難しいはずの金光大神、難しいことはないけど、その気になりゃ。「金光大神の言うことにそむかぬよう」というところは難しいことじゃないです。金光大神は決してその逆立ちして歩けとかね、酒は飲んじゃならんぞ、肉は食べてちゃならんぞなどと仰るような教えは、一つとてもないのですから。
 それでもやっぱり信仰によりますと、一生逆立ちをしておったりですね。「酒を飲んじゃならん」と言われるから酒を飲まなかったり、また「肉を食べちゃならん」と言われ肉を食べなかったり、酒を飲まなかったりというような言わば艱難、なんちゅうか、ね、難行苦行ですね、いわゆる。そういう難行苦行しておる宗教でもやっぱあるんです。だから金光様の場合はね、そういう難行苦行がないです。私どももその気になれば、ね、よく守って行けれる教えばかりなのです。
 その教えが守られないというのはですね、結局は私どもは一心に助かりたい、助けて頂きたいという念が薄い証拠です。これはもう私はほんと今日、そこを感じます。どうでも助かりたい。どうでも助けて頂きたいということになってまいりますとですね、もう教祖様の教えて下さることを守らにゃおられなくなってくるです。だからね、なかなか一言だって、なかなか行じられません、守られませんというのはね、まだ本当に助かりたいという一念がない人です。
 成程これではね、所謂便々だらりと信心が続いても、しっかりしたおかげは頂けないと思うですね。只それにちょっと便乗しとるだけ。ほりゃもう本当にそうですよ。只このことを助けて貰いたいと。ね、だからなら今日からはどんな事が起こったっちゃ、それを腹かいたり愚痴を言うたりしなさんなと、例えば言われたらですね。成程それは腹が立ったり、愚痴を言わにゃきゃおられないする事がありますけども、そこん所はお詫びをさして頂いて、形やら言葉に出さんだけなら出来るでしょうが。
 どうですか出来る筈です。私どもの心の中の事ですから、むかっとする事もある。ほんとにああどうしてと悔やまにゃおられん事もあるけれども、その悔やむ言葉やら態度をやらをですね、出さんで済むだけなら出来るでしょうが。もしそれを又失敗しましたと言うて、腹の立った事を言うたとするなら、一心に助かりたいというその心がない証拠です。だから、まさかの折に一心に頼むというのはね、私共がどうでも助かりたい。
 助けて頂きたい。ただここん所をですね、ほんとに突発的に何か起こった時、金光様とお縋りすることだけではないと言う事を、今日は分かって頂きたいです。ね、まさかの時に金光大神が出る事言う事は有難いですね、それでも。先日もあの原さん所の車に同乗させて頂いて、久保山さんと私の妹とがさせて頂いて、常持の所で衝突をした。車はメチャクチャになった。助手席に乗っとった妹がです、もうそれこそ思わず知らず、もう金光大神様と言うて、もうそれこそ乗っておる者はそれこそ出らじゃったと。
 金光様とこの字も出なかったけれどもね、池尻さんだけは金光大神様とおらびなさったと言っておりますようにね、おかげでかすり傷一つしませんでした。自動車はメチャクチャ、ね、自動車はもう使いものにならんようにあったけれども、その中のまあいうなら、原さんがこぶども出来なさった位のことでです、おかげを頂いておる。だから本当にまさかの時、そういう時にもです、金光様が本当に出るようなね、信心を頂きたい。だから私はここの所をそういう時のことばっかりと思うておりましたですね。
 けどそうじゃないです、今日は。本当に助かりたいというときなんです、私が言うのは。ね、まさかの時でしょうが、本当に助かりたいという時なんです。だから助けて下さいと言いよるけれどもです、例えば今申しますように、ね、御教えに頂く御理解を頂きまして、そのことがです、守れないようでは、まだ一心に助けて下さいと言うておる証拠だと、ない証拠だと知らなきゃいけませんね。本当に助けて頂きたいと思うならね、その位のことが出来んはずはないです。
 いっちょここんところを今日は一つね、自分達の助かりたい助かりを求めておる、その助かりの願いがね、非常に薄弱であるということを一つ分からせてもらって、どうでもこうでも助かりたいという一心をね、一つ出さしてもらう、必ず助かると仰る。その助かりを得たいと思います。それにはね、まず何と言っても、けれどもその願いの中心を間違えてはなりませんね、。ただ病気なら病気を治して下さいと。お金儲けさして下さい、というだけじゃいかんのです。ね。
 何故お金がいるのか、何故健康になりたいというのか、というところがはっきりしなければいけません。ね、だからここんところはどうでも一つ、億万長者にならして頂きたいという、億万長者にならして頂いたら、その億万の金を持って本当に神様に喜んで頂く、社会のお役にでも立たせて頂けるようなおかげを頂きたい一念が、億万長者にならしてくださいという、それでなからなければ勿論いけませんですね。
 生命を助けて下さいでもそうです。助けて頂いてから、もし助ってからでん根性の悪いようなことばっかり言うようなことで助けて下さる、もう芯が立たんです。祈りの中心が。ね、助けて頂いたら、ね、これから先の生命をです、例えば私の方の幹三郎じゃないですけれども、ね、助けて頂いたこれからを、神様のお役に、御用に使うて頂くとこういう。今日はね、例えばそういうような、例えば突発的な、まさかではなくてです、どうでも助かりたいという願い。
 だからこれはやはりまさかという時にもう通じます。ね、そこでその一心を立てて、ね、願いの中心を間違えず、どうでも助かりたいという一心を立てて神様に願って行くなら必ずその願いが成就する。そこでまあ、沢山の御教えがありますけれども、せめてこのことだけは守り通さなければ、というまあ容易いところを今日はこういうふうに頂きました。[妬まず、憎まず、欲しがらず、その場その場を一心に]。「妬まず、憎まず、欲しがらず」どうですか。これなら出来ましょう。ね。
 「憎まず」ね、あれがああしたからという心はもう相手を憎んでおるわけです。それから「妬まず」隣の人が儲け出しよると腹ん立つごたある、そういう妬み心と言う様なものをです、ね、払うて行く同時にね、人もなんかよかものを持っておると、すぐそれを欲しがる人がある。はぁあげんとばいっちょ自分も買うたならと。ね、そういう程度の、そういう程度の欲しいがらずですよ。だから容易いでしょうが。「やああんた良い着物を買いなさったですね。ほんに私もいっちょ欲しか」そういう心をです。ね、
 何かうまいものを食べござる。私もいっちょ食べたいそういう心ですから、出来んことないでしょう。ね、その中をその、ね、願いを立てる。しっかりした中心になる程しの、神様の心に叶う程しの願いを立てる。そしてです妬まず憎まず欲しがらず。しかもその場その場を一心に願って行くと。私は何回か見せて頂いたですけれど、テレビの映画に、あれは「花と狼」かなんかというのがあってましたですね。もう実に何という役者か知らんせんけれども、それは大変その配役が良いんです。
 よい役者ばかり出ております。あの侠客者のあれですかね。自分がその現場におったばかりに、その人が殺されたのが、自分に無実の罪を受けるわけです。それで自分はその場を逃げてです、どうでもその時にチラッと見たその腕に竜の彫り物があったというだけがたよりで、全国をその流れて回るという、それがあの私は何回か見ましたけれどね。その場面その場面でその面白いように出来ておるのですね、あれは。配役が良いからそれは素晴らしく面白いんです。
 それがどうでもその自分のその無実の罪を明かさなければならない。警察も追って回っております。それから殺されたところの親分の子分達もそれを探して回っております。その町その村に行っていろんな出来事があります。もうその中で一場面一場面にですね、もう必ず、その道が開けてくるですね。助けてくれる人があるわけです。まあ俗に申しますよね、俗にと言うか本当のことだと思いますよね。見捨てる神があれば助ける神があるということなんです。
 これなんか、自分自身のですね、無実であるということを、どうでも証明しなければならないという一念を立てておるわけです。ですからこれは本当ですわね。それでそのただ自分が罪を犯して逃げ回っておるというのではない。だから自分が罪を犯して逃げ回っておって、助けて下さいではちった虫が良すぎる。けれども自分の無実の罪を証さなければならないためにです、逃げ回っておるんだと。しかも警察は全国に手配してあるから、そのいろんな捜査があっておる。
 同時にその殺された親分の子分達も何人手分けしてから、それを追って歩いておるけれども、もうまさかまさかというところで、今日の御理解じゃないけれども助かっていっておるですね。そういう私は何場面かでしたけれども、そういうところの映画を見たことがあるが、今日その映画の場面を頂いたんです。そして今日この御理解を頂いて、皆さんに聞いて頂いておるです。昨日特別奉修員の方に聞いて頂いたんですけども、土居の久富さんがお知らせを頂いておられる。
 金網の中に入れられて、そしてこう何かと闘わねばならないということである。もう逃げるわけにはいけんのです。ですからああえすかと言うてから、金網にしがみついとるなら、絶対相手からやられる。どうでも逃げられんのだから、本気で自分に向うてくるそれと立ち向かう気持ち作れば安心じゃとお知らせ頂いておられますですね、素晴らしいですね。お互いが一つの窮屈な難儀な思いをしておるということは、やはりめぐりのせいです。めぐりのために現在の難儀があるのです。
 言うなら檻の中、金網の中に入れられて、その巡りと闘わなければならんのです。それをです、その巡りから逃げ腰になったんでは、巡りにやられてしまいます。是は巡りというものはね、これはもう天地の中にそういう決まりがあるらしいです。巡りというものは正しいものには絶対負ける事になっとるです。同じ巡りも五、自分の力も五であるならばですね、正しい信心をする者が絶対に勝つ事になってるです。是はもう絶対です。ね、よこしまなもの、邪、邪智なものには負けるです、正しいものには。
 けれどもね、その正しいものでもね、それが逃げ腰を作ったら、言うなら巡りからやられるです。是はもう絶対ですから皆様ね、そのほんなごと逃げ腰を作ってはでけんです。ね、そこん所を一にも押し二にも押し、三にも押しと言う様になるのですよ信心は。だから元気な心がいるのですよ。ね、もうとても私どもでは難しかというごとある気持ちになるとがぼっとやられるそれこそ、ね、勝てる筈のその巡りからやられるです。ね、だからそれに向うという気になれば安心じゃと神様も教えておられるです。
 久富さんに。どうしていつまでもこげん難儀が続くじゃろうか、どうしてとそういう心では、いつまでたってもしだごだの難儀が続くです。ね、本気でその難儀と取組むという気になったら、ね、勝たにゃんごとなっとるです、信心する精神のものが。ね、信心にはやはり元気な心で信心せよと仰るが、元気な心が、ね、もう湧いて来る様なおかげが頂きたい。何か難儀に直面したら、今までなかった元気が湧いて来る様な、ね、ファイトが湧いてくるような、ということになります。
 そういうおかげを頂かなきゃいけません。ね、縮こまっとってこうしとったんじゃ、かたかた震えよったんでは、ね、それこそ勝つはずのそのめぐりからやられなければなりません。ね、そこでどうでも助かりたいという一念、その一念、一願と申しますかね、一つの願いというものをです、どうでも貫かねばならない。それで自分の願いというものがです、果たして神様の心を射抜くような、ね、中心を間違えた願いではないかというものを一つ正して、そして一心に縋って行く。
 本当に助かりたいという一心になればです、教祖様の御教えはね、守らなければおられなくなってくるです。ね、金光大神の言うことに背かぬようと、背いては馬鹿らしくなってくるです。けれども教えが守られません。背いてばっかりおりますと言うなら、あなたはまだまだ一念を立てて、助かりたいという一念を、まだ立ててはいない。その思いが薄いと知るべきです。さあ助けて頂かねばならんから、辛抱がしきれんけれども、さあここは神様にお縋りして辛抱せんならんということになるでしょう。
 世の中には、ね、それこそその花と狼の筋じゃないですけども、見捨てる神があればまた助ける神がその場に必ずある。ね、窮すれば通ずるとかいうような言葉もありますように、これは絶対のものです。しかもそのたとえば願いの中心というのが、間違いでないならば、ね、そこで金光大神の言う事に背かぬようと言う事をです、ね、まそれが相似というわけにいかんでも、せめて今日は、ね、私がここで頂きました「妬まず、憎まず、欲しがらず」その場その場を一心にという信心を持ってです、ね。
 どうでもこうでも助かりたいという一念を燃やされなきゃいけん。願いの中心を間違えずに願っていく。「まさかのおりには金光大神助けてくれと言えばおかげを授ける」と仰る。ね、そういう瞬間的なことからではなくて、どうでも助かりたいという一念同じはずです。いわゆる金光大神様に一心に縋る、縋っていくためは、ね、内容としてその願いの中心を間違えずに、しかもそういう信心さして頂くんですから、ね、妬み心憎まねばおられないといったような、ね。
 また欲しがらずと言った様な、妬まず憎まず欲しがらず、これを心に掛け通しに掛けさせて頂いて、本気で一心に願い続けて参りましたら、ね、どういう願いでも成就すると思います。これは私のね過去何十年の信心というよりも、私ども引き揚げて帰って参りまして、二十五年の信心の上にそれをはっきり、私の信心に表れとります。ね、どうでも親孝行したいばっかりに、のたとえば立身出世の願いであり、どうでも親に喜んでもらいたいばっかりの金儲けであり、その一念が貫かれております。
 そして信心が、もちろん「妬まず、憎まず、欲しがらず」それは私自身のことです。これは、ね。本当にあそこで憎まなければあんたは馬鹿じゃないかのと言われるような時でも、私は憎んではきませんでした。ね、もちろん妬み心なんか勿論起こりませんでした。ね、勿論ね、欲しがるなどというようなことはまずございませんでした。それは神様に、ね、例えば一生たとえばこれは欲しがりませんとか、買いませんとか言った様な誓いを立てたくらいですから。ね。
 それでいてなら親に喜んで貰いたいばっかりが、親がいわばもっともっと大きな親に育ってきたと言う事ですね。その中間の親は勿論だから、に喜んで貰える筈です。是はだから私の信心を今日は聞いて頂いたように思います。必ずどうにも出来んという時には必ず、助ける神があったと言う事です。それにはいつも私は焦点を間違えていなかったと自分で思います。ね、本当に成程教祖様が教えて下さる願いをです。
 守らなければ、とにかく馬鹿らしいというかね、守と言う事は決して難しいことではなか。いかに私が一心に助かりたいと言う願いを持っておったかと言う事が分かります。本気で親孝行したいという願いが、本気であったと言う事を今にして思うのです。ね、本気で思うなら絶対、御教えを守れないはずはありません。本気で助かりたいと願うなら、守れんならまだ本気で助かりたいという願いが希薄であると分からして貰って、愈々本気での願いにならなきゃならんと思いますね。
   どうぞ。